ゲシュタルトの祈り

とある国のとある田舎町での生活で、

とても消耗してしまった時期がありました。

それが海外生活の通過儀礼のようなものだったのか

適応障害、もしくは過剰適応だったのかはわかりませんが、

ひたすらとても辛かったんです。

 

原因は、

言葉を含めた文化の違い、生活習慣や価値観の違いなど様々だったと思いますが、

一番大きかったのは、つれあいに関わる人々との関係だったと思います。

人の移動がほとんどない小さな田舎町で、

すでにできあがっている人間関係に入っていくのは、思った以上に大変でした。

 

閉鎖的で、誰かと必ずどこかでつながるよう狭い社会で、

必要以上に張り切り、緊張し、自意識過剰になり、

頭の中で描いた人間関係と現実とのギャップが大きすぎたことや

あんなに勉強した英語が、思いの外通じないことにもパニくりました。

それで

とにかく関わる人全てに対して

嫌われてはいけない、うまくやるべき(やっていきたい)と一人で空回り、

気づかぬうちに無理を重ねたらしく、とにかくクタクタでした。

まあ簡単に言うと、”ぶりっ子” していたのかも知れませんし、

「こっちはこれだけやっているのに」と言う、恩着せがましさもあったかも知れません。

 

今思えば、このとある田舎町の人々にとって、

突如現れたアジア人の私は、まるで得体のしれない ”エイリアン” か何かのようで、

どう扱って良いのかわからなかったのかも知れません

でも

当時、必死に空回りしている私からすれば

”よそ者” の私を受け入れようとする姿勢も寛容さも興味もほとんど示してもらえず、

「仲間になりたければ、そっちで何とかすれば」と言うような冷たさも感じ、

孤独感や孤立感でいっぱいだったんです。   

 

今思えば、私にも甘えがあったのだと思いますが、当時は

「こっちはあなた達の国、あなた達の土地で、あなた達の言葉で頑張っているんだから

 少しはそこんとこを配慮してくれてもいいじゃないか」と怒りもいっぱいありました。

と同時に

「私が何も特別な物を持っていないから、無視されるのだ」と言う劣等感や

「この土地で私にできることは何もないかもしれない」と言う不安にも苦しみました。

徐々に大きくなっていくこう言ったフラストレーションを話しても

この社会に慣れてしまっているつれあいには、おそらく理解するのが難しく、

何かというとあちら側?に立つような態度、発言の数々・・・

これにはさすがに何度も切れました!

 

当時は、いろんなネガティブな感情に押しつぶされそうで、

その気持ちに負けないために、いつも怒っていたなあと思います。

怒らないと、下へ下へと、どこまでも沈んでいきそうだったからです。

 

そんな時

心理カウンセラーラッキーさんの ”しあわせ心理学、パンダの温度” を読んで

「なるほどなあ」と思いました。

      (https://panda-ondo.org/人間関係/人の目を気にする/)

 

特に、そこで紹介されていた ”ゲシュタルトの祈り” は

まさに「目からうろこ」と言う感じでした。

 

「すべての人とできるだけ仲良くすべき」とか

「私がいたらないのが悪い、いやあっちが冷たい」などなど

ゴチャゴチャした気持ちでいっぱいでしたが、

単にその人と合わなかった、つまり相性が悪かったんだから仕方が無いのだ、

どこかで私に合う人が見つかればそれで良いのだ・・・と

ちょっと悲しいですが、今はそう思うようにしています。

 

この ”ゲシュタルトの祈り” を読むたびに

 人に過大な期待を抱かないと言う静かな諦め、

 自分は自分だという強い自信、

 そして

 私は私で良いのだ・・・という希望のようなものを感じます。

携帯メモに書き写して、ラッキーさんのお勧め通り、今でも何度も読み返しています。

頭で納得できても、実践となるとなかなか簡単ではないからです。

 

その ”ゲシュタルトの祈り” をここに書いておきます。

私のように、どこかで悪戦苦闘している誰かさんの気持ちが

ちょっとは楽になるかもしれません。

心理カウンセラーのラッキーさん、本当にありがとうございました。

動画も見させていただいています。

 

ゲシュタルトの祈り(by フレデリック・S・パールズ)

 私は私のことをする。あなたはあなたのことをする。

 私は、あなたの期待に応えるために生きているわけではない。

 そしてあなたも、私の期待に応えるために生きているわけではない。

 私は私、あなたはあなた。

 もしも偶然、私たちの心が触れ合うならばそれは素敵なことだ。

 もし触れ合えないとしても、それは仕方のないことだ。